『喪失と獲得―進化心理学から見た心と体』の要約、解釈、メモ書きです。
興味があればどうぞ参考にしてください。
人間の自己人格と自己意識
今、意識できうる“自分”は、
その肉体に宿る“自分”という一人の人格にすぎない。
普通、人には1つの自己が存在し、
五感で感じたものを処理し、1つの思考を作り出し
1つの意識、人間性を営む。
多重人格に対する単一人格であるというだけである
自分の中に単一の自分がいて、
それが自分の意識を統合して自己を作り出す。
赤子であれば、その人格は、まだきちんと形成されておらず、
意識・感覚を統合する自分という自己は無い
あるのは感覚による脳信号のみである。
赤子の時期から幼年期の期間はこうした人格が形成される次期でもあり
この時期に意識的、無意識的に自己を閉ざす必要がある日々を過ごす場合(虐待など)
人格は分裂し多重人格となる。
自分で自分を見つめなおすということは、
自己の中にもう一人の客観的な人格を創造し
その創造上の客観的な人格の視点から自分の主人格を見る必要がある。
成人後、主となった主人格が消えることはまずありえない
自分を変えるということは
“主人格である自己”の考え方や思考、意識を変える訳だが
考え方によっては主人格を無視したもう一人の理想的な人格を演じることで
そこから、統合された新たな人格を複合させていくことができるかもしれない。
自己の上に自己を持ち、また自己の下に自己を持てれば、意識は自在に操れる
信念と認識
科学、物理学、数学的な考え方を人は受け入れられる
また、それが世の中の真実(事実)であるという認識も強い
科学は認識、神学、哲学などの信念で分けられ、
信念は合理哲学でもあり(統合して推測する)信じることにある訳だから、
信じない人がいることに疑問も持たず、
自分でその存在を確証することもできない。
認識することは、実験哲学であり、
それが実際に存在することであるから、
それは知識でもある。
人が“認識”する物理学において、
等式の両辺の物理的次元は同じでなければならない
質量と等式で結べるものは質量であり、
時間と等式で結べるものは時間だけであり、
人と等式で結べるものは人である
心理と脳の研究の“答え“が明白にならないのは、
その”次元”が違うからである
感覚と近くの違い
人間には感覚と知覚があり、肉体と精神が存在する
五感で肉体が感覚とたことを精神によって自己が知覚する
感覚に差は無いかもしれないが知覚に差があるため
同じ赤を見ても違うものを意識する
進化の理由と過去
生物は環境に順応して、より繁栄して生きていけるように進化していった
(進化論~ダーウィン主義、自然淘汰も含む)
それは身体的なものに限らず、感覚、知覚などの内面も同様である
何かに恐怖したり、人が死に悲しいと感じたり、
道徳心を持つのは進化による産物である
人の感覚などには、進化の仮定も含めてすべてに必ず理由がある
しかし、その意味、何故?を満たすものは
率直にわかることと過去を探らなければわからないことがある
時計が今の形になっているのは何故か?という問いに対し
針がついているのは一目で時間を指標し、
それを理解できる形になっているため
なぜ右回りなのかと問われれば、
実際それは左回りでもいいわけだが全ての時計は右回りでできている
それは太陽の動きに合わせて作った影時計のなごりが残っているからである
時計の回転の理由はいまだけを見てもその意味は無いため理解できない
しかし、進化の過程や過去を見ることで理解できる
人の内面的感覚も過去からの進化を見てしか
その理由がわからないことも多々ある
物事の見方を変える意識論
自閉症患者の中にはものを一部のカテゴリ組織へ含めて認識できない
馬を見ても、それを馬という部類に入る生物であると認識できない
普通の人が馬を見れば、それは馬であると認識し、
むしろその馬の色などの主な特徴を見るだけで、馬の普遍敵なイメージで
その馬の絵を書ける(ただ、正確性は伴わない)
自閉症患者はそれを馬と認識できないことから、その馬を映像として
1から記憶し、認識する。だからこそ
より正確にその馬についての記憶を強く残す
分別意識の欠落が、強い記憶能力を養うことになる
表現の理由
自己表現(絵を描くことなど)で、
人に見てもらいたいという願望を持つ現代人は
その思考の中に利益追求と共感を得たいという思いがあるが、
これが何からきたのか追及すると、
自然淘汰、性淘汰によっていきついた思考である可能性を考えられる
自閉症患者も絵を書くがそこに意識はとくになく、
現代人のような精神的願望はない
原始人の洞窟絵画でも同じことが言えると思われる
孔雀などが綺麗な羽を広げて異性へのアピールをすることと同様に
生理的、無意識的な性干渉へのアピールが洞窟絵画だった可能性もある
早期段階での無意識行動は全て
生理的(性行為も含む)裏付けがあってしか行われない
コミュニケーション能力により言語が生まれ、
思考や精神が自然淘汰していき
今の現生人類の精神が出来上がっている
行動の根源は探らなければ見えないものだらけである
喪失し、獲得する進化
より良い進化を遂げるには、喪失や後退が必ず必要となる
成功曲線は必ず前後する、しかし「良い」状態になった人間は
「最善」の状態を見つけるために、
「良い」状態を破棄することはできない性質にある
(失うことに大きな抵抗力し示す傾向にある)
なので、成功曲線の前後はその途中の「良い」で止まってしまう人が多い
(それが普通の日常の中の普通の生活を営める幸福)
(それが最高の結婚を求める以前の目先の手ごろな結婚とそれの維持)
遠くにある最善を得るために、
試行錯誤するより、身近な「良い」を選びをれを守る
成功したり、より大きな進化を遂げた人、生物は、
一度得たものを失いまた構築することでより「良い」ものを得ていく
(戦争で喪失した街はより早いスピードで再建され、さらに進化する)
(成功をつかみ、堕落した人はより大きな成功を掴む)
不幸、強制的に起こった衰退こそが成功への最大のキーパーソンとなる
保守には創造は生まれず、発見もないため進化も無い
構築には創造が必要となり、発見による進化を遂げられる
遠回りをしてこそ得られることが多々ある
記憶力が異常に良い人は数字配列を丸暗記できるが、
その規則性を見つけることはできない
脳の使い方としての記憶脳は良いが、推測脳が発達していない
人類は記憶力の喪失によって、規則性を見つける思考能力を培った
今の思考の何かを欠落させることで思いがけない能力を開花させられる
それが人間の脳の無限の可能性である・・・・脳能力の喪失と獲得である
※しかし、この事例では記憶力を要する人間に行為に伴う
対価認識が乏しかったこともあげられる
プラシーボ反応
薬が効くと信じ、信頼し効果を期待することで、
自己の自然治癒力が増強し、効果を得ること
実際に多くの実例が確認されている事実である
原理的に潜在的可能性として認識している病状には
すべてその自然治癒力が作用する
痛みを感じることは危険への察知、
発熱することは体内の菌を殺すため、
恐怖、緊張を感じさせることも危険信号であり、
嘔吐は毒物を吐き出すための生動
すべて自分を守るための防御本能である
(問題定義)
人間は生まれてくる前の自身の子どもに
どれほどの愛情を持っているのだろうか?
この世の中をどんなに最低にとらえていても、
子供を産みたいと思うのは何故か?
戦争中、こんな時代に生んでも幸せにはなれないと知りながら
子供を生むのは何故か?
最終的には自己的な自己満足を満たすためだけに、
子を生産するにすぎないのではないか?
(問題定義)
幼年期の人格形成時に道徳信を伝える際、
死を美化した概念を常識として教え込んだなら
その「正しさ」に従うため、
死という行為に身を投じる人が多くなるだろうか?
ポンドオークションと戦争
誰かが1ポンド(約100円)を10円で競売にかけたとする
これには100円の値がつくまで、
間違いなく競ることになる(その金額次第ではもっと)
しかし、ある程度入札が入った際、競売人は1つの条件を出す
1番目の人と取引するが、2番の人からもお金をいただく・・・と
そうなると、2番になる人は無条件でお金を損するのが嫌なために
値段はどんどん釣りあげられていく
これが人間心理における戦争の原理ともいえる
暴挙と憎悪
憎悪は暴挙の後、自身の行動を正当化するために生まれる情動である
その人は傷つけられて当然であったと自分を正当化したいがために憎悪が固まる
自己的な視点も含まれるのだろうか?(人を殺した罪の意識が正当化を志す憎悪になる?)
それは行動を伴わないイメージや行動の動機付けの段階で生まれる情動でもある
権利者からの命令は、たとえ人に害を及ぼすものでも無条件で従う傾向にある
血液型、星座などの占いは固定概念から生じる
自分が回りからどう見られているかという意識がその人格を形成する
誰かが宝くじに当たっていることは自明の理だが、
自分が、自分の身の周りの人間が宝くじに当たったことは運命的に感じる
「なぜ自分が!?」と思うこの「なぜ」がすでに何かを期待して生じている
自分に起きた偶然を自明の理とは思わないのが人間であり、
本来なぜと思わないことに対しなぜと感じて期待を生じさせる
これはイエスキリストにも言える
その期待は自分の都合良く(とくに悪く)精神を働かせる
幼少期、少年期に血液型を一切知らない人が
一切知らない人同士でそれを判別すれば、その傾向性は見られない
ヒットする占いは、時間をかければ誰でも作ることができる
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